118 愚かな事 ・8
アナウンサーの早稲田出身、露木氏はじめ、東大、慶応出身者が周りにゴロゴロいるが、ひかるは益々異彩を発揮していく。
威張る事なく、腰が低い、テレビの命は番組だ!、と茶の間を意識。
人間として生まれ、一番愚かな事、一番の不幸は、せっかく親から貰った知恵を、使う事なく、墓場へ持っていく事だ!
とひかるの口癖は響き渡っていた。
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アナウンサーの早稲田出身、露木氏はじめ、東大、慶応出身者が周りにゴロゴロいるが、ひかるは益々異彩を発揮していく。
威張る事なく、腰が低い、テレビの命は番組だ!、と茶の間を意識。
人間として生まれ、一番愚かな事、一番の不幸は、せっかく親から貰った知恵を、使う事なく、墓場へ持っていく事だ!
とひかるの口癖は響き渡っていた。
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タケシの番組でロケを担当させたMカメラマンを、ねるとんに起用、ロケの経験が豊富で、他のカメラマンとの連携がスムーズに行ったのである。
勿論オールロケで、これ程充実した内容の番組が出来る、という事で、業界では予想以上の評価を得る事になったのである。
労使問題で青息吐息だった会社が、誰もが目を疑う活況ぶりだ。
当然、業界では注目され、後にフジテレビ100%子会社と成って行く。
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このシステムは、威力を発揮したのである。
スタジオの音楽番組やドラマなどは、台本があって、ディレクターが、カット割りを決めていく。
重要な仕事である。
ロケの場合、いちいちカット割りなぞ言っていられない。
カメラマンが、全体的な画の構成、流れを把握していく必要がある。
かなり高度な能力を必要とされるが、バッテリーの問題が解決され、番組内容に集中出来るため、いい番組が出来るという訳だ。
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こんな時間帯に、中継車を使って、番組を作るなんて、とても考えられない・・・・といわれたのである。
この番組は、スタジオで番組を作る以上の、素晴らしい画が、低コストで、茶の間に届けられたのである。
ロケの場合、だいたいバッテリーは5、6個持っていく。
ねるとんは、4チェーン必要なので、照明やVTRなどを含めても、30個前後あれば十分だ。
他にも、海外や国内ロケがあるが、トータル的には問題なし。
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この番組の放送時間帯は、不毛の時間帯と言われ、なかなか視聴率がとれない、売り物にならない時間帯だったが、一変したのだ。
この番組が放送されると、業界の人達から見ると、中継車を持ち込んで、かなりケーブルを引き回し、番組が作られていると、思ったらしい。
コスト的に中継車をキープすれば、キープしただけで一日百万以上はかかってしまう。
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勿論、常に当時では、最高倍率の望遠レンズ、高感度のカメラを用意、かなり離れた距離から、カップルをねらう。
カップルは、近くに人もいなければ、カメラの影もないので、普通の恋人が恋を語るように語る。
皆さんが、テレビを見、その状況は知っているだろう。
編集も、例えば、プロポーズシーンで、別の男が、まった! 誰が見たとしても、生放送、あるいは、それ以上の内容だったのだ。
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編集時に、スタートマークを揃え、同時にスタート、4分割画面に、それぞれの画をはめ込んで編集ポイントをチェックする。
早い話が、4画面を見て、タッチをしていけば、面白い表情が、リアルに編集出来るというシステムだ。
もちろん、素人相手なので、従来のストップ、スタートを繰り返していたのでは、とても表情が硬く画像にならない。
まかり間違い、演技をつければ、完璧なやらせになってしまう。
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ねるとんでは、今までにない,まったく新しい多重ロケ方式が採り入れられた。
常に、4台のカメラとVTRが対になっており、同時にスタートさせ、テープが終わるまで、一切ストップをさせない。
4台のカメラVTRが回っている状態で、映画で使われていたガチィンコを撮りスタートマークにする。
4台のカメラは、自由に動き回り、あらゆる角度から収録。例えばグラスを落として割るシーンなど、手元と落ちる床面を撮るカメラを決め撮影。
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このバッテリーは照明やVTR,音響機材など全てのロケ機材の電源に使われ、各メーカーが統一電源で機材開発、設計が出来、日本の映像業界が世界の先駆者に成ったのは言うまでもない。
いち早く電源を統一、投資リスクを軽減できた業界は五十年以上もアメリカの放送NTSC方式から脱却。デジタルのスカイツリー時代を築いて行ったのである。
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恐るべきは、このBP90なるバッテリイー、あらゆるロケの電源として使われ、なおかつ、30年をたった今でも活躍中。
ひかるの着想、電光石火の決断が、ロケの電源を統一、安定させたのだ。
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タケシの番組で威力を発揮したが、さらに多重ロケという「ねるとん紅鯨団」、当時では考えられない番組手法で、このフローティングシステムが成否を分けたと言える。
ひかるはタケシの番組でロケの真髄を得とくした、Mカメラマンを起用し、本格的なロケ時代の幕開けを確実な形にしていったのである。
現在、田舎へ泊まろう、NHKの家族に乾杯などオールロケ花盛りだが、30年以上も前にそれ以上の番組が作られていたのだ。
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テストをすると十分行ける代物だ。ひかるは、これで放送業界を一変させられる、と小躍りした。
BP90という型名で、早速チャージャーを分解、誰もが驚く75連のフローティング式チャージャーを部下を動因し、一月もたたない内に完成させたのである。
メーカーが4連式を得意になって売り込みに来たが、75連を見せると、腰を抜かさんばかりに驚いた。
こんな事をする人など、想像も出来なかったであろう。
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ロケを採り入れた番組を作りたい、誰もが考えうる発想だが、具体化するには何らかの着想が不可欠だ。
当時のロケ、一番の難点はバッテリー問題だった。ひかるもカーバッテリー等、あらゆるバッテリーを考え、実験したが、やはり無理だった。
試行錯誤、明けても暮れても実験中、小型弁当箱大、きゃしゃに見えるが、ビニール樹脂でコーティングされた物が目に止まった。
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そしてテレビ局と番組の内容で勝負しようとの考えである。
ひかるが手始めにトライしたのが、「天才タケシの元気が出るテレビ」だった。
兵頭ユキや高田順次の映像は、お茶の間に大いに受けた。
そして、業界を、あっと驚かせたリアルな表現、しかも素人を相手にした、オールロケの「ねるとん紅鯨団」だった。
その後、日本は世界に類を見ない映像、テレビ王国へと突き進んでいったのである。
次回、裏話など・・・ご期待を。
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しかし、ひかるは全く逆の発想だ。
こういう時だからこそ、打って出る、しゃにむに攻撃態勢を取り、社内の目を組合騒動からそらせ、一丸にする。
攻撃目標も、生半可でないどでかい目標を掲げる、という発想だ。
当時のテレビはドラマやクイズ花盛りで、スタジオ、局内中心で作られている。
ロケを大量に取り入れ、山や川、家の中まで入り込み、外部の映像を茶の間へ届けよう、番組作りの土俵を強引に外へ出す。
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しかし、ひかるは苦境に立たされれば立たされる程、頭を使う。
次から次と、誰もがあっと驚く奇抜な策を行使、放送業界全体をも覆すリーダーシップを発揮して行くのである。
二度にわたり、管理職が有能な社員を引き連れ独立、残された社員が殆んど組合員、会社の存亡すら危惧され混乱。
当然、沈静化するまで待とう、何んとか無難に切り抜けよう、と守りに徹するのが普通である。
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20代後半、沖縄が本土復帰をする。
ひかるは大事にしていたパスポートを焼きすてた。
ひかるの中で何かが吹っ切れたようだ。
そしてちょうどその頃、社内には、一大異変が起きていた。
第一期入社の同期の連中は、管理職として、各部門を統括していたが、よりによって、その連中が、束になって、会社を辞め、別会社を設立し、従来の仕事をそっくり持って独立していったのだ。
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年々増える社員に、同期の仲間達は、主任、課長、部長へと次々に出世していくが、ひかるには、全く無縁であった。
窓際族というよりは、むしろ窓外族。
課会や部会、全体会議があっても、外回りのため全く出席しない、出社しても機材室へ直行、機材をまとめ、そのまま中継で、帰って来るのが夜遅いから、管理職や上司と顔を合わせる場がないのだ。
しかし、上司の批判を焼き鳥屋で聞きながら、自分ならあのような管理職にはなりたくない、管理職はこうあるべし、という脳内トレーニングはしっかりと出来ていたのだ。
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カラー放送も軌道に乗り、毎年新入社員が大量に採用され、社内は活況を呈していく。
しかしひかるは、冷暖房完備、皆んなが好むスタジオの仕事より、外の中継の仕事を自ら好み、王、長嶋選手の活躍していた当時の野球中継、ファイティング原田のボクシング中継、コント55号の萩本欽一とは、関東近辺の公開場をドサ回りをしていた。
たっぷり汗をかき、焼き鳥屋で仲間と酒を飲むのが、一番の楽しみだ。
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新聞紙上を賑わせ、昨日まで社長と崇めた社長を、今度は社員が放送カメラを持って犯人扱いで追い回すという、考えられない事が起きたのだ。
第一事業所配属、同期の連中は、設立当時から心血を注ぎ、大きくした会社が、訳の分からない倒産をし、どれ程つらい思いをしたのか、胸が痛む思いである。
勿論、会社更生法が適用されているとの事だ。
ひかるは、ここでも頭がよくなくて、第二事業所へ回され、幸運だったと、胸をなでおろした。
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TBSはドラマ制作に力を入れ、ドラマのTBSというイメージで、フジテレビは、ピンポンパンなど子供番組がヒット、母と子のフジテレビというイメージで、両局とも快調に業績を伸ばしていった。
そして、お互いがライバル局として見るようになり、第二事業所は、後に100%フジテレビ子会社化していくのである。
バブル時、東通の経営陣が、巨額の資金をゴルフ場開発に注ぎ込み、バブル崩壊と同時にあっけなく倒産した。
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東通は、TBSから社長が送り込まれ、経営陣もTBS色が強かった。
第一事業所がTBS内に置かれ、第二事業所が、フジテレビ内に置かれた。
頭が良く、入社試験の成績の良い奴が、TBS内第一事業所に、配属されたと言れたが、たぶん事実であろう。
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残りの15試合をテレビ朝日やNHK、はたまた日本テレビの系列局で争奪戦するという形になる。
だから日本テレビは、70試合以上の放送枠を確保し、巨人が低迷すると大変だ。
ちなみに、南端石垣島などは、TBS,フジしか民放が届かない。
巨人ファンは、かわいそうだ。
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例えばフジテレビだと、ネット系列の関西テレビが、阪神や広島などと交渉し、放送権を獲得する。
それを、関西テレビ発、フジテレビ系列で全国放送するという訳だ。
勿論、名古屋にもネット系列の局があるので、そこ経由で放送するという事。
TBSと、フジテレビ系列で、年間、だいたい55本くらい、半々で放送する。
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年間、140試合とすると、70試合は、日本テレビが放送する。
残りの70試合が、五つの球団、14試合ずつ分割されるという事だ。
横浜は、TBSと資本関係にあり、横浜対巨人戦14試合は、必然的に放送する。
フジテレビは、ヤクルトとの資本関係で、ヤクルト巨人戦14試合を、必然的に放送する。
それ以外に中日、阪神、広島もそれぞれ14試合ずつ権利がある。
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野球放送は、巨人戦を中心に編成されている事は言うまでもない。
野球ファンの5割は巨人ファンと言われ、アンチ巨人が2割いるとすれば、7割が巨人戦、観戦という事になる。
同時間帯に、巨人戦以外のカードを放送しても、なかなか視聴率が取れないのである。
巨人戦は、資本関係にある、日本テレビが過半数の放送権を持っている。
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会社更生法で、存続はしたようであるが、就職した、ずば抜けて頭の良かった友人達の顔が、頭をよぎったのである。
ひかるは、さほど頭がよくなくて良かった。幸運であったと、しみじみ感じたのである。
また、頭がよくなくて良かったと思われるような幸運が、これから先、何度もひかるに訪れるのである。
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ひかるは、難なくテレビ界に就職出来たのである。
(TV界が、これ程急発進、急展開する事は、誰も予測出来なかったのである)
求人広告で目を引いたのは、赤井電気という、中堅企業であった。
待遇が、他の会社に比べ、格段に良かったのである。
クラスの秀才達は、その赤井電気に殺到した。
15年前後、新聞の見出しに、赤井電気倒産の記事を見た時、胸をなでおろした。
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その会社は東通という会社で、後にカラー放送が始まり、バブルの時代になると破竹の勢いで伸びていく。
その後、日通、電通に迫り、日本の3通と呼ばれるまで急成長していくのである。
昭和40年、ひかるは、その東通の第1期生として華々しく入社したのである。
ひかるが夜学卒業時、求人板には、今の名だたる家電メーカー、東芝や日電、松下やソニーなど、設計関係や、それがらみの求人が所狭しと並んでいた。
テレビ関係の求人は殆んど無く、隅っこに一枚あっただけで誰も振り向かなかった。
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民放では、巨人戦、プロレスの放送権を持つ日本テレビは、後から開局したTBSやフジテレビに比べるとダントツである。
TBS、フジテレビは、日本テレビと比べると、横綱と序の口の勝負で、とても歯がたたない。
そこで、なんとか日本テレビに対抗出来ないものか、と考えたあげく、手を組み、両社で資本を折半し、カメラマンやオーディオマン、映像マン、照明など、番組制作技術スタッフプロダクションを設立したのである。
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世相も、戦後の混乱期を脱しバブルの助走時代、人々は工場で汗、油まみれに働き、野球放送とプロレス放送を見ることによってストレスをはらしていた。
当然まだ白黒放送で、放送時間も、現在みたいに、一日中放送しているわけではない。
夜のゴールデンタイムと昼メロが主で、昭和30年代後半になると、朝のモーニングショーがヒットし、その後、午後3時代の番組も放送されるようになったのである。
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労使問題でガタガタしているとはいえ、発注先であるフジテレビ゙が、設立されたばかりの、資本の入っていない独立会社へ翌日から仕事を廻す。
明らかに契約違反であり、フジテレビは、ひかるの会社を潰しにかかった、と解釈されても仕方のない事情であった。
取り巻く周りからもかなり注目されている中、唯一残った第一期生、ひかるは、社のどまん中へ担ぎ出されてしまったのである。
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昭和30年代、NHKに続き、4チャンネルの日本テレビ、6チャンネルのTBS、8チャンネルのフジテレビ、10チャンネルのテレビ朝日、12チャンネルのテレビ東京の順に、民放は開局していった。
NHKは、ニュースが主体で、民放は、王、長嶋選手が活躍する野球放送、力道山が活躍するプロレス中継が、横綱的存在の番組であった。
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昨今は、粗大ゴミと陰口される父親像ですが、世の中平和過ぎ、父親の出る幕が少ないからとて、粗末にされたのではたまりません。
何か一大事が起きた時、それなりに、毅然として立ち向い、頼られるのが、主の役目。
今一度、それぞれの父親像を考えてみる必要が、あるのではないだろうか。
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また地震や緊急の災害時、持ち出す物は色々有るかと思いますが、オーバーコートが一番役に立つのではないだろうか。
コートを羽織る事により、風雨が凌げ、見通しの良い場所でも、下着などの着替えが簡単に出来、家の役目さえするのです。
咄嗟の災害時、真夏でもオーバーコートを持ち出す、心の準備が大事かと思います。
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抗し難い、大自然の力とは言え、コツコツと築き上げた我が家が吹き飛ぶ。
翌日からの生活を思い巡らし、家を後にする時、父親の気持ちはどのようなものだったのだろうか。
南国の真夏、殆んど着る事の無いオーバーコートを着、荒れ狂う嵐に悠然と立ち向い、家族を守る。
父の背中はあまりにも大きく、凛々しい姿として瞼に焼き付けられ、ひかるが生きていく中、人生の厳しさに背を向ける事なく、前向きに立ち向い、家族を守る、一家の主の姿として生き続けたのだった。
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避難場までは、1キロくらいあり、風速70メートルの逆巻く突風は、前後左右から揺さぶって吹き、決して同一方向から、均一的に吹いて来ません。
会話は嵐の中へ千切れ飛び、痛い程叩き付ける雨に、目も開けられず、風圧で、息をする事すら苦しく、顔をあげておられません。
大人ですら、進むのが困難な状況である。
闇夜の畦道、吹き飛ばされ、足に纏わり付き、やっとの思いで、避難場へ到着。
不安な一夜を過ごしました。
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父が、オーバーコートを出すよう、指示。
風があるとは言え、南国の汗ばむ真夏。
なぜ、オーバーコートが必要なのか?
雨具代わりに使うのだろうか?
答えはすぐ、出ました。
母が大事にしまってある、一着しか無いオーバーコートを出すと、無造作の中にも、襟元をきつく絞り、ベルトをしっかり締め、子供達は、両方の裾に掴まれ、との事である。
初めて見る、父のオーバーコート姿でした。
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父は、「台風は我が家を直撃する。この分だと屋根が吹き飛び、危険なので避難をする」と、ため息を残し、立ちあがりました。
母は、「この嵐の中、どうやって避難所まで、行き着くのか」と、脅え声。
(台風は目に向かって、左回りに風が吹き、一点にいて、刻々変わる、風向きと風力で、台風の目がこちらへ向かって来るのか、逸れて行くのか判断出来ます)
具体的に北東の風が東になり、時間経過で強まり北東の風に戻ってきた場合、間違いなくこちらをめがけ直撃体勢に入っている事になります。
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ひかるが小学校へ入る前の出来事で、瞬間最大風速70メートルくらいはあったでしょうか。
大型の台風が、島を直撃。平たんな島は、風圧をまともに受け、遮る物は何も有りません。
電気は無く、真っ暗闇の真夜中、轟音渦巻く風の音、激しく叩き付ける雨の音、そして、家がギシギシとマッチ箱を揺するが如く、激しく揺れ動いているのに目が覚めました。
暗闇に目を凝らすと、父と母が、いつもと違う、重苦しい不安げな顔で天井を見つめ、会話を交わしております。
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若い時代、多くの素敵な出会いや恋をし、色々な所へ行き、苦労もいとわず、冒険もし、多くのシーンを脳内に焼き付けておく事が、老後をより楽しく、幸せに過ごす、秘訣ではないだろうか。
若い時代、人生のアルバムを、脳内いっぱい貯金し、周りの人々へ、幸せ貯金を放射出来る、年寄りになりたいものです。
そのおじいちゃんも、人生をまっとうした、との便りを受け、ひかるは幸せエネルギーの放射を、体いっぱい受けられ、最高の出会いだったと、感謝しています。
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大勢の子や孫の結婚や出産、名前を覚える事。
進学や就職などの便りや写真が、脳内いっぱい詰め込まれていたのです。
そして、脳内に詰め込まれた、写真やストーリーを寝ながらでも、瞬時に引き出し、何回でも再現し、毎日が映画を見ているように、楽しく過ごしていたのです。
そうです、脳内に焼き付けられた人生のアルバムは、お金もかからず、体力も使いません。
いつでも、瞬時に引き出し、何回でも楽しむ事が出来るのでした。
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何んでそれ程までに、幸せを周りに放射出来るのだろうか?
体力的には、庭の散歩がやっとで、寝ている時間が大半のおじいちゃん。
不思議な力を感じ、その場を離れるのが勿体無く、ついつい色々な話をし、時を過ごしてしまいました。
「今にも天国から、迎えが来るかも知れない」と平気でしゃべっている姿からは、死に対する不安が、微塵も感じられません。
どうしてなのだろうか?
話を聞くと、おじいちゃんの人生は、子だくさんの為、苦労は多かったが、楽しみも多かったとの事。
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ひかるが、南の島へ帰郷した際、ある85歳のおじいちゃんと、ゆっくり話をする機会が有りました。
おじいちゃんは、10人もの子だくさんで、孫やひ孫を数えると、40人は、いるとの事。
子供達は、高校がないので、一度島を離れますが、もう二度と島には帰って来ません。
おばあちゃんと二人っ切りは、淋しそうに見えるのですが、私は一番幸せ者だ、と自慢。
事実、温和な丸みのある、幸せが滲み出ているのが、感じられます。
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日本国教育を受けた人がいきなりこの字を見せられ、たなし、と読む人はいるのかな?
以後、地名や人名には、注意をするようになりました。
恥は、かけばかくほど、度胸がつきます。
大いに、恥はかきましょう。
罪のない恥を・・・・
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しかし、そこは、忍々の、人生修行の場。
焼飯とチャーハンは、同じだったのでした。
カラスの、白け鳥!
失敗談には事欠かず、西武新宿線の「田無」に用事が有り、切符売り場で、「デンブ」ください、と言うと、怪訝な顔をされ、ニタッとした後、そんなものは無いと、そっけない返事。
からかわれているような気がし、田舎っぺ根性、ふつふつ、むらむら。
二言、三言、やりあいましたが、読み方が「たなし」だと言われ、開いた口が、塞がりません。
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「この男、笑わせてくれるではないか!」 と今なら言えますが、当人は、何んで笑われたのか、皆目見当がつきません。
訳を聞くと怒られ、「お前、それでも日本人か?」 と言われた時には、頭に来て、むかつきました。
当時はパスポートを携えての身分で、沖縄人が一番聞きたくない言葉で切れる瞬間。
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みんなが取った後に残った物が、チャーハンだろうとの考え。
待っていると、残っているのは、前日と同じ焼飯。
「誰か注文を間違えた人はいませんか!?」、と大声で聞きました。
誰も間違えていないとの事。
「君、何を注文したのだ?」と聞かれたので、
「誰か注文を、間違えているはずです。私は間違いなく、チャーハンを注文したのですが、焼飯しか残っていないんです!」
みんなが、食べ物を一斉に吹き出してしまいました。
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上京直後、組み立て配線工として働いていた時、またまた、大失敗です。
昼食には、出前をとっていました。
食べ物の名前は、初めて聞くものばかりです。
周りの注文を見聞きしながら覚えていこうと考え、真似をする事に決めこみました。
初日は、天丼、ラーメン、チャーハン、焼飯と、みんなが注文するのを聞き、唯一知っているメニューで、焼飯を注文。
その日は、無事に何事も、起こりませんでした。
翌日、例によって、みんなが注文をした後、中身は知らないけど、しゃれた名前なのでチャーハンを注文。
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主人が出てきたので、一言、二言文句を言いました。
日曜日の昼の混雑時、主人はケンカもできず、呆れ果てるばかり。
ひかるは、上げ底メニューで、客をだます、悪徳食堂の悪徳主人に、客を代表して文句を言ってやった、思い知らせてやったと、正義感に燃え、肩で風を切り、堂々と店を出て行きました。
「神様! この男に罪はない、単なる無知だ! 救いの手を・・・・・・・」
お店の皆さん、ごめんなさい!
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大盛に盛られた、どんぶり飯を期待していただけに、裏切られた時の腹の立つ事、立たない事!
娘を呼びつけ、「これは、大もりではない!」と一括。
田舎ものだと馬鹿にされないぞ、だまされないぞ、という剣幕で劣等感が爆発したのです。
親切に、ツユのお代わりまでしてくれた娘は、あっけにとられ、精神異常者ではないか、という恐怖の眼差しで、奥の方へ逃げていきました。
周りの雰囲気は、皆さんの想像にお任せしましょう・・
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前の女子高校生はすでに避難し、どうしてよいのか分からず、恥ずかしさと冷や汗。
当人は完全に、舞い上がっています。
店全体の視線を一身に受け、仕方なく、そばを一本ずつ、ツユに浸しながら食べていると、隣の客が親切に教えてくれましたが、時すでに遅し。
周りの雰囲気からして、何が何んだか食べた気がしません。
さて、次は下のご飯だぞ!
はやる気持ち、ぎこちない手つきで、すのこを取りました。
何んだ、これは!
カラッポではないか!
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前席の高校生だと思われる女の子が、あれ~と甲高い声を出し、椅子を軋ませ逃げ出す。
周りの客は、針でつっ突かれたかの如く、一斉に注目。
見るとテーブル上は、運悪く、ツユが前の方へ流れています。
娘が飛んできて、ツユを拭き、お客に誤り、調理場から、もう1本ツユを持ってきました。
こぼしたものと勘違いをしたのです。
さて、2本目です。
どうするか??
あまりの出来事に、多くの客も、野次馬気分で立ち上がっての見物。
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過疎の村で、外食とは関係なく育ったひかる、食事作法を知らず、オロオロ上目使いに、周りを伺う様子。
自信のない人は、特に目立ちすぎます。
思案のすえ、見事な閃き。
ツユを上からかければ、その下にあるはずのご飯にも味が沁み込み、旨いだろう。
そうやって食べるんだ、と考え、思いっ切り、バサーツとかけてしまったのです。
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ツユ入れを、フタだと思い、伏せたまま、お盆の上へ置きました。
さて、その後どうやって食べるのか?
ハシでツユを確認。
そばを1本1本、ツユ壺に入れて食べるのか?
試しに1本やってみましたが、どうも具合が悪い。
腕組みをし、しばらく考えました。
どうしても、周りの視線が気になります。
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おそらく、そばの下に、ご飯がたっぷりあるだろうと、一人合点し、空腹から湧き出る食欲と、生唾を飲み込む。
さあー食べようか!
初めての食べ物、食べ方が分かりません。
大もりの下に、お盆があるのですが、隣の客には敷いてありません。
注文を運ぶお盆を忘れ、そのうち取りに来るだろうと気を使い、お盆を横に置き、器を直接テーブルに置きました。
さらに、ツユ壺の上に、ツユ入れがかぶせてあるのに、それが分からず、大失敗の因。
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メニューで一番、腹いっぱいになりそうなのは、読み方からして、「大もり」でした。
注文をし、どうも、周りの視線が、興味深げに、じろじろと、ひかるを見ているのに、嫌な予感。
ほどなく「大もり」が来ました。
ひかるの考えでは、「大もり」といえば、どんぶりに、大盛に盛られた、どんぶり飯を想像していましたが、目の前に出てきたものは、意に反する物。
だけどいいや・・・
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何を食べようか?
壁に貼ってあるメニューを、ひと通り往復して見ました。
だいたいのお客は、椅子について注文を考えます。
壁の前をウロウロし、しかも顔色が浅黒く、栄養失調ぎみの飢えた目。
変な男がはいって来た、と他の客が注目しているのは、視線で感じられます。
女子高校生と思われる、女の子二人との相席でした。
店は、母親と、娘なのでしょうか、中学生くらいの女の子が、手伝っておりました。
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毎日が、ひもじい思いをし、夢にまで食べ物が出てくる上京当時の出来事。
一度でいいから、腹一杯ご飯を食べてみたい、という願望を叶えるべく、アルバイトのお金が初めて入った時、思いっ切り食べようと心に決め、外食をすることにしました。
子供の頃から、外食の経験がほとんどなく、今日は腹一杯食べられる。自分の稼いだお金で、思いっ切り食べよう、という期待に胸をはずませ、店に入りました。
日曜日の昼時で、ほぼ満席の状況。
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そして、辛かった過去を振り返り、いつもはパンの耳をふやかして食べる、食器代わりのコップ酒、ひとりでしみじみ飲み乾しました。
別れの杯を交わした、父の顔が、はっきり浮かんできます。
後戻りは、できない!
前へ、進むしかない!
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何んとしても、テレビの仕事に就きたい。
この一途な夢は、現在の番組制作技術プロダクション、(株)東通(現、八峯テレビ)に入社し、実現しました。
面接試験時、身元保証人が、本土にいないことを指摘され、保証人ではなく、本人を信用して欲しいと要請。
採用は無理かと思いながらも寒い中、郵便受けの前で待ち続け、採用通知を受けた時の喜びは、天にも昇る思いでした。
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夕食の時間がなく、15分間の休憩時間に食堂へ走ります。
食堂のおばさんが、私の駆け込みを知っていて、食事を用意してあり、それを胃袋に流し込み、寮へ帰ると12時、このリズムが続きました。
休みの日は、街頭テレビを見るのが唯一の楽しみ。
どんなに辛くても、魔法の箱の中味は、必ず解明しよう、と自分に言い聞かせ、無事卒業。
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今でも辛い時は、傷跡を見、あの時の痛かった事、情熱をぶつけて頑張っていた時のことを思い出しながら過ごしており、以後、どのような試練が襲いかかろうとも耐えていける、という自信がついたのは、大きな財産になりました。
都内は交通渋滞で、定刻に会社へ戻れません。
神田の会社から、蒲田のテレビ専門学校まで、駅の改札やホームを一目散に、走りまくります。
1分1分が大事で、ドロボウが、逃げ、走りまくっているように見えた事でしょう。
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過労のためなのだろうか。腰がふらつき、ときどき目まいが襲います。
作業中、荷物に指をはさみ、潰してしまいましたが、病院へ行く金もなく、休めば食べていけません。
潰れた指を手袋で隠し、なにげない様子で、翌日も働き続け、あまりの痛さに、指が腐るのではないかと、心配でしたが、いつの間にか治りました。
人は、過酷などん底生活の中、己の体につけた傷跡や心に染み込んだ教訓は、生涯忘れられません。
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早速、翌日から職探し。
皿洗いや組み立て配線工、自転車での配達など経験しましたが、日給が5百円程度と安く、生計を維持するには無理がありました。
そこで、日給8百円で、なんとか生活可能な、トラックの助手の仕事を見つけ、会社の寮へ入れてもらいました。
毎日、鈴や亜鉛のインゴットを満載し、配達周りの力仕事でしたが、運転手は、荷物には何一つ手をつけず、栄養不足と、睡眠不足の体には、過酷な仕事でした。
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1日をパン1個で過ごした日が、どれほどあったのだろうか。
絶えるかもしれない、命の恐怖に、何かを残したい、毎日の行動を記録し、自分を励まし、耐えたのです。
そして、生命力の強さ、偉大さをつくづく痛感させられました。
上京時、父はやっとの思いで、1万7千円のお金を用意してくれました。
当時は、高校卒業の初任給が、1万7千円くらいでしたので、1カ月以内に底をつくのは、目に見えており、急いで働かなければ、夜学は続行出来ません。
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やっぱりどんな事があっても、参考書だけは、今後、売るようなことはしないようにしよう。
仕方ないので、今日は朝から食パン1個で、1日中過ごす。腹の虫がグーグーなっている。
ペンさえも、いつもと違い、ふらふら千鳥足、残る2日間の我慢だ。明日の仕事は元気でいこう。12時記す」
ひかるにとって、パンの耳は、本当の命の源で、どれ程ありがたいと思ったことか。
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売りたくない気持ちは山々、そうかと言って、飯を食べずに過ごすわけにもいかず、ある一軒の古本屋円に入り、買ってくれと頼むと、今はその本ありますから、とのことで、この本屋を出る。
この場になって、自分ではよく分からない程の、本に対する未練が出てきて、そのまま帰ることにした。
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現在の飽食時代、パンの耳で過ごす事など、考えられないかも知れませんが、日記に、昭和40年当時の状況を見ることができます。
「3月29日、月曜日、今日は朝から会社は休み、給料日は目の前だけど、どうしても金が不足。
しかたないので、電子工学、図解パルス工学、電気論の3冊、2000円相当を古本屋に売りに行った。
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身も心も一心同体、体全体で苦しんでいるはずが、孤独、寂しさ、辛さは、精神だけの問題にすぎず、鼓動は平常通り、淡々と打ち続ける。
ひかるにとっては、生まれて初めての悟りで、自分の精神が、いかにひ弱いのか、情けなくなりました。
強い心が欲しい・・
よーし、生きのびて見せる!
自分にとって、後戻りは出来ない。
辛くても前へ進むしかない。
こう心に固く誓いました。
以後、生涯、精神と鼓動の葛藤が続くように成ったのです。
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父が、やっとの思いで作ってくれたお金、周りの反対を、黙って押し切ってくれた事、あの拗ね顔を思い出すと、おめおめと島へ戻る訳にもいかず、自分自身が情けなく、疲れ果てたある日、一人で天井を見つめ、孤独をかみしめながら、何気なく、手を胸に当ててみました。
「何んだ、これは!」
思わず、声が出ました。
これだけ辛い思いをし、悲しんでいるはずなのに、鼓動は平常通り、何事もなく、すがすがしい響で脈を打っていたのです。
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今考えると、栄養状態は極度に悪く、凍死寸前の状態だったのです。
食べ物が欲しい・・。
着るものが欲しい・・。
誰か話し相手が欲しい・・。
頼る人が、一人でもいてくれれば・・・
お金はみるみる底をついて行き、孤独、辛さに、このまま生き続けられるのだろうか?
不安のどん底に、陥りました。
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翌日もパンの耳が貰え、コッペパンを買わずに済んだ分、今度は牛乳を買いました。
牛乳にパンの耳を浸して、食べるのです。
更に初めての冬は、心身共に堪えました。
常夏育ち、冬用の衣類はなく、敷布や毛布も有りません。
畳の上に、掛け布団1枚で寝る始末。
安アパートのため、隙間風は自由に往来、明け方はとても寒くて、眠れません。
少しでも体温を逃さないよう、膝を抱え込み、体の表面積を最小限にし、ガタガタ震えているだけ。
猫の気持ちがよく分かりました。
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一度でいいから、ケーキを食べてみたい・・
しかし金がない。
空腹、みじめ・・
飢えた目で、周りのパンをキョロキョロ見ている姿、気の毒に思えたのでしょう。
店のおばちゃんが、他の客がいないのを見計らい、紙袋をそっと渡してくれました。
部屋へ帰り開けると、パンの耳でした。
他人様から、始めて貰った食べ物、心からありがたいと感謝したのは言うまでもありません。
早速、コップに水を入れ、パンの耳を浸して食べる。
これで一食分助かった。
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ひかる19歳。パスポート持参で、貧しい中での上京。
頼る人とて無く、バイトに夜学。バイトの金が入ると、ラーメンを箱ごと買い込み、コッペパンとの連続。
食べ物さえ確保するのが大変な時期でした。
いつものパン屋へ行った、ある日の出来事。
顔色は浅黒く、頬は痩せこけ、明らかに上京したての田舎顔、手はズボンのポケットへ入れ、十円玉を数え、買えるかどうか思案中。
目は卑しくも、買えるはずのない、美味しそうなケーキの方へ行ってしまいます。
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見果てぬ夢がある限り、命を張って生きてみよう。
いつの日か、我が家で映画が観られる時が来る・・と。
(若い人には、街頭テレビが理解出来ないかと思いますが、40数年前、テレビは超高価で、各家庭にはまだ普及しておらず、大きな駅前に、競馬場の場外モニターの如く設置され、庶民はそれで、テレビを楽しんでいたのです)
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そして翌日、魔法の箱としか思えない、テレビを一刻も早く見たいと、早速新橋駅前の街頭テレビを見に行きました。
黒山の人だかりで、全ての人がテレビのプロレス中継一点に集中。
確かに、プロレスは別の場所で行われ、テレビにはそれが写っているのです。
夢にまで見続けたテレビ、魔法の箱ではなかった。
そして群衆が熱中し、興奮している姿を見た時、テレビに挑戦しても、間違いではないと確信。夢は大きく膨らんでいったのです。
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大勢の人が行き来し、ピルへ吸い込まれていく様子を見た時、これはアリンコの世界だと直感。
家の庭に数えられないくらいのアリ達が、それぞれの巣を作り、せっせせっせかと働き、食べ物を蓄えていた姿にそっくり。
東京の人々が一段と小さく見え、何んで人間がアりンコになってしまうのだろうか、と考えさせられました。
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また、右を向いても目、後ろを向いても目、だらけ。
東京の人の多さには、これまたびっくり、超たまげ~
島の住人は、200人程度で、殆んどの人が、顔見知り。
例え知らない人でも、道ですれ違う時は、挨拶を交わしながら、すれ違います。
東京の人、一人一人に挨拶をしていたのでは、前へ進めません。
挨拶は止めました。
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四つん這いになり、起き上がる時、総立ちで見ている人々の視線の冷たさ。
田舎者! バカ! トンマ! いい加減にしろ! と言いたげな視線は、今でも忘れられません。
車内の、今にも吹き出したい気持ち、我慢しながら見ている視線を、一身に受け続ける事は、なんとも気まずいもので、恥ずかしさを通り越し、居たたまれない雰囲気。
追われるように、次の駅で飛び降り、後続電車に乗り換えました。
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急に走り出す事を、全く想定していなかったので、心の準備が出来ておりません。
いきなりバランスを崩し、「どうなっているんだ! あー あー!」と見事に転倒。
瞬間、恐怖と驚きで、頭の中は大パニック、「止めろ! 止めろー!」と絶叫してしまったのだ。
周りは何事が起きたのかと、一斉に注目、総立ちになりました。
昔の電車、急発進、オーバーランは、日常茶飯事。
電車は何事もなく走り出しているのです。
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好奇心旺盛な少年は、ドアに目が付いているはずだ・・
ドアの目がどこに付いているのか、と探しておりました。
次の瞬間、電車は走り出したのです。
自然の息吹と共に、伸び伸びと育った、少年の初めての電車。
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昭和38年4月、1週間も船に揺られ上京。
沖縄は全国で、唯一電車のない県ですが、島には、車や耕運機すらなく、電車という乗り物は、初めての体験。
けたたましく責め立てるベルに、前の人に連られ、急いで乗り込みました。
すると、あまりにもタイミング良く、待っていたかのように、ゴロゴロ、とドアが背後で閉まったのです。
生まれて初めて見る自動ドア。
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船は、全ての未練を断ち切り、一路北へ・・・
この船の進む先に、ロマンがある・・
そして、テレビがある・・
過酷な試練が、刻々と近づいているのも露知らず・・
ひかるは、帆先へ立ち、目を大きく見開き、未来を見つめるだけでした。
(これから先、ひかるはテレビ界で縦横無尽に活躍、結果的に、両親の死水は取れなかった)
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今更、船から飛び降り、戻るわけにはいかない・・
戻れない・・
親子の全てを断ち切った!
木の葉のような橋渡船の父に、最後の別れを一言。
「許してくれ! 息子は亡き者と、諦めてくれ・・!」
心底絞り出す言葉は、声になりません。
千切れんばかりに手を振り、今後の無事を、ひたすら願うしかありませんでした。
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この先、妹は兄の帰りを待ち切れなかった。
東京がどんなに厳しい戦場なのかつゆ知らず、松葉杖を突いて着の身着のまま上京。
地を這う生活苦の中、独学にて縫製国家試験特級を取得、東京都の身障者教育に身を捧げる事になる。
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大海原に落とす夕陽の涙は、今生の別れを惜しんでいるのだろうか・・
無常にも二度目の汽笛は、空と海へ途切れ、鳴り渡るドラの音に、一段と激しく身を揺するエンジン、溢れる涙に、視界はこぼれ落ちて行きます。
未練の糸なのだろうか、夕日に赤く染まった海面に尾を引く、白い航跡。
橋渡船の父と、本船の少年は、縋る甲斐なく引き離され、大きな人生の別れをするのでした。
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妹は棒切れを突いて、ピコタン,ピコタン追いかけ、「兄ちゃん、行かないで・・」と泣きじゃくる。
「兄ちゃん、必ず帰るから」と諭し、心を鬼にする。
年老いた両親と、体の不自由な妹を島に残し、旅立つ息子は、親不幸なのだろうか・
10歳の遊び盛りに、足の不自由な妹の遊び相手は、誰がするのだろうか・・
いつまでも、いつまでも、元気に暮らして欲しい・・・
夕陽は周り一面を真っ赤に染め、西の海へ深々と物悲しく沈んでいきます。
なびく髪、風さえも赤く染められ、心に滲み渡る蛍の光。
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杯を交わす時、父は決して、目を合わせまい、としていました。
拗ねているように、視線を外し、何かを必死で耐えている様子。
多分、視線が合えば、上京は取りやめなさい、と、口から出るのを耐えていたのでしょう。
両親にとって、一番辛い時だったのかもしれません。
少年は、心から寂しがる両親の横顔を見せつけられ、白髪の様子や、禿げ具合、シワの数までしっかりと瞼に焼き付け、刻々と迫る別れが辛く、この世で一番長い夜を過ごしました。
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空路が開かれた今では想像出来ませんが、当時、上京するには、黒島から朝一便の船で石垣島まで行き、夕方、石垣を出港し、翌日の昼頃那覇港着、夕方那覇港を出、東京の晴海埠頭まで、3泊4日、便数も週2便しかなく更にパスポート持参での上京。
もし、危篤の知らせがあったとしても、帰郷するには最低一週間は必要。
ニキビだらけのあどけない顔の少年ながら、決して死に水は取れないだろうと、覚悟しました。
両親を前に、生き別れの杯を交わさせてくれと頼み、別れの杯を交わしての旅立ちとなりました。
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経済的、精神的にもまだ暗いトンネルの中、上京は、誰が考えても無理な相談。
心の内を父に相談すると、「自分の思った通りやればいい・・」と一言。
しかし周りは大反対、年老いた両親と、足の悪い妹を島に残し、なんで東京に出るんだ!
せめて、沖縄本島位にしたらどうだ・・
無口な父は、ただ黙っているだけ・・
人間は、一度不幸のどん底に落ちると後がなく、怖いものがなくなるのだろうか・・
これから先、一家は離散、それぞれの幸せをコツコツと築き上げて行ったのです。
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11歳の多感な少年は、この大きな試練に、家族が押しつぶされるのではないかと不安になり、子供心にも明るく振る舞い、無邪気な妹の遊び相手をするよう、心掛けたのでした。
そのうち小児マヒが、伝染病でない事が分かり、明るさを取り戻して行ったのです。
10年後の昭和38年、ひかるは、高校卒業と同時に、東京へ出、魔法の箱、テレビを解明しようと、決心。
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米国の統治下、勿論、保険制度もなく、手術や渡航滞在費など、細々と暮らす一家にとって、とてつもない費用。
遊び疲れたのだろうか、妹は膝に抱かれ、小さな寝息、ランプの薄灯かりに映し出される、疲れ切った父の横顔は、藁をもつかむ眼差し。
普段ですら無口な父は、更に無口になって行きました。
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島では見た事も、聞いた事もない、初めての発病。小児マヒに関する知識がなく、周りの子供達に伝染するのではないかと見られ、精神的には、完全に隔離状態。
母は、物の怪に取り憑かれたように、祈祷師を回り、西の方角にある木が災いしている、と聞けば、必死で切り押し、父は、直さなければ、手術をしなければ、金を作らなければ、と毎晩、財布を広げ、わずかばかりの、増えもしない金を数えるばかり。
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脈をとったまま、水!、水をくれ、との催促に、冷たい井戸水を汲み続けました。
母は、無我夢中で冷やし続け、その甲斐あったのか、数時間続いた引き付けは、徐々に治まって行きましたが、あまりにも高熱が続いたせいなのか、後遺症が残り、片方の足が完全に、マイしてしまいました。
小児マヒ、にかかったのです。
この嵐のような出来事が、これから先、一家に試練を背負わせる事となったのです。
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解熱剤なるもの、薬と呼べるものは何一つなく、助けを求めるにも近所には、誰一人いません。
母は、知恵熱やカゼ、普通の発熱でない事を咄嗟に感じ取っていたのでしょう。
取り乱し、「助けて欲しい!」 と叫ぶ、その只事でない形相に、命に危険が迫っている事が感じられます。
次々と他界した子供達の事が、脳裏をよぎっているのだろうか。
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ひかる11歳、妹が3歳の、昭和29年夏。
父は、漁へ出かけ、母は野良仕事、やっと走りまわれるようになった、妹の遊び相手をしていると、元気がなくなり、そのうちグッタリ倒れてしまいました。
急いで、母を呼び戻した頃には、泣き声一つ出す力さえなく、痙攣の合間に、断続的にひきつけを起こす程の異常な高熱。
40度以上の高熱が続いているのだろうか。
火照った体は、風呂上がり状で、体内はそれ以上の高温でしょう。
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どうしても、映画が観たい・・
この映画が、家に居ながら観られる・・
だったら、テレビを勉強してみたい・・
何時の間にか、ひかるは、5コマ漫画の世界へ夢を膨らませ、魔法の箱解明に人生を賭けてみたい、と行動を起こすのでした。
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情報の全くなかった島、電波など考えられなかった島で育った少年には、そんな望遠鏡が有るはずがない!
魔法使いにでも、出来ないはずだ、と思えるのでした。しかし、何度読み返しても、5コマ漫画は同じ答えしか出してくれません。
以後、テレビの3文字は、少年の脳裏に焼き付けられたのです。
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マンガ本の片隅に、5コマ漫画で、コタツに入りながら映画が観られる。
「これがテレビだ」と書いてありました。
目を疑い、もう一度読み直しましたが、何度読んでも、同じ答え。
家に居ながら映画が観られる?
本当にそのような事が出来るのだろうか?
映画館の無い島、焼玉式エンジンのポンポン船で行き来する、別の島で上映される映画が、この家で観られるはずがない・・
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一度で良いから、映画が観たい・・・
お願いだから、映画を観せて欲しい・・・
きっと来年は映画を観せてもらえる、と懸命に畑仕事を手伝う。
待ちに待った夏休み、しかし夏休みは、日1日と過ぎ、夢は空しく消えて行きます。
必ず、正月には観せる、と父が約束。
なお一層小さな体で、両親を手伝いましたが、それでも夢は叶えられませんでした。
約束を守って欲しい・・・と無理に言い出せません。
親が一番辛いのは、子供心にも分かっています。
中学2年生の時でした・・・
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小学校高学年の頃には、島の貧しい生活に見切りを付け、石垣島や沖縄本島へと引っ越す家が多くなり複式学級制へと移行していきます。
5 挑戦!TV界
そんな中でも、子供達にとって、1番の楽しみは、夏休みや冬休みに、15キロ離れた石垣島へ渡り、映画を見る事でした。
しかし少年の家は、特に貧しく、石垣島へ渡る船賃や映画代など、とても考えられず、その日暮しの状況。
子供同士で、映画のシーンや仕草の真似をしながら遊ぶ時が、一番悔しく、どうしても仲間に入っていけません。
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飲み水は雨水を瓶に溜め、大事に飲みます。
ボウフラが湧き、瓶の首をコント叩き、潜った瞬間、すくって飲む、ボウフラとの協同生活。
ランプのホヤを拭くのは、大人の手が入らないので、子供の仕事と言われ、何の抵抗もなく、毎日拭かされ、何度かホヤを割り、叱られて育ちました。
サンゴ礁で出来た島では、岩だらけの合間に点在する、猫の額程の畑を耕し、家庭菜園に毛が生えたような自給自足の生活。
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昭和18年8月、八重山地区の黒島に、ひかる誕生。
出産設備や病院のない島で、生まれた子供が次々と3人も他界した後、3歳違いの長女に続く男子、ひかる誕生で、両親の喜びはひとしお、八年後、母43歳で妹が誕生します。
妹は高齢出産の子、特別可愛がられ、幸せな五人家族でした。
小さな島には電気はなく、勿論、水道もありません。
情報と呼べるものは、特にありません。
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石垣島の港は遠浅のため、沖縄本島行きの大型船が港に入れません。
7、8隻の橋渡船が、沖の本船まで荷物や人を運び、最後に見送り人を運びます。
本船は、一度目の汽笛でゆっくりと走り出し、見送り船は、別れを惜しむかのように、周りを追走。
覚悟の上とはいえ、親との生き別れは、これが最後で、2度と会う事が出来ないのかと思うと、あまりにも切なく、身を引き裂かれる程辛いものがあります。
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信じがたい事ですが、この地区は、5万人もの人口を有するにも関わらず、平成5年末迄、NHK以外の民放テレビの電波が、届きませんでした。
現在でも民放は、二つのチャンネルしか映りません。
沖縄本島との間に中継局が作れず、テレビの最後の未開地である。
45年前、この地区の周囲12キロ、人口二百数十人という小さな島から、ひかる少年がテレビにロマンを求め、風呂敷包とパスポートを携え、旅立ちました。
さて、どんな人生になるのでしょうか・・・
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またこの地区は郷土芸能の宝庫とも言われ、マタハーリヌ、チンダラカヌシャマヨー、と歌われる、沖縄県を代表する、安里屋ユンタ等、数多くの民謡や踊りを生み、方言や風習など、貴重な財産として引き継がれ、サンゴの種類や規模の大きさ等でも、世界屈指の群棲地として注目の的となっています。
現在、テレビは全国の家庭に入り込み、生活の一部となっている事は言うまでもありません。
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台風情報を一番先に捉える、日本南端の石垣島気象台で知られ、空港拡張では、サンゴ礁破壊問題を抱えています。
南の島々は空から見下ろすと、すべてサンゴ礁で縁どられ、そこへ打ち寄せるさざ波は、白くリング状に取り巻き、鮮やかなコバルトブルーから、濃いネイビーブルーへと変化する、まばゆい紺碧、膨大な絵の具を流し込んだのではないか、とさえ思われる風光明媚な大自然が豊富に残されています。
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知床半島や釧路湿原など、日本でも、世界遺産に登録されているところはあるが、まず一番目に、この西表島が、自然世界遺産に登録されるべきではなかっただろうか。
国連環境問題等で、環境大臣が、世界に誇れる、ネコ科の原種が日本に生息している事をアピールすれば、絶賛されるのではないだろうか。
隣りの石垣島は、沖縄県最高峰の於茂登岳、526メートルが有り、この地区の人口4万6000人の内、4万2000人、90%以上の人口が集中。
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西表島は起伏に富んだ山だらけ、人口2000人の島で、周囲75キロの90%以上が、マングローブや亜熱帯の原生林に覆われ、東洋のアマゾンと呼ばれる、生まれたままの自然が残された、日本最後の秘境の島である。
またこの島には、天然記念物の西表ヤマネコが生息している。
この猫は、中国大陸と日本が陸続きだった大昔、この島の山に取り残され、そのまま生息しているという。
ヒョウ、ピューマ、チーターなどネコ科の原種だという。
中国のパンダは世界的にも有名だが、それよりも貴重な動物が、日本にも生息中という事である。
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60年を過ぎた今、やっと沖縄も少しは注目されるようになって来たのである。
沖縄本島より450キロ南、県2番目に大きな西表島、3番目に大きな石垣島を中心とした、19の島々からなる、八重山地区は、日本最南端、波照間島、および最西端、与那国島を有する、日本の最南西地区。
また、今は無人島ですが、以前はカツオ漁が盛んに行われた魚釣り島もこの地区にあり、海底にはかなりの石油が埋蔵されているとの、調査結果があり、中国、台湾も帰属を主張し、国際的にも関心が寄せられています。
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焦土と化した広大な土地に、米軍は極東をにらんだ巨大な基地を作った。
残された猫の額ほどの、親兄弟の血のしみこんだ土地を耕すしかなかった。
食糧難、沖縄の人たちは、米軍に物乞いの如く、縋りついて生きるしかなかった。
そして戦後は米国統治のままである。
沖縄から見ると本土は自分達の繁栄、復興に必死で、沖縄は見放された状態に映る。
親が自分の身を守るために子ども切り捨てた、という怒り、感情が渦巻き、
戦前から植え付けられた反米感情をはるかに上回る、今度は反日感情が積み重なっていったのである。
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沖縄県は、120もの島々で構成され、第二次世界大戦最後の上陸作戦、激戦地となり、戦後は昭和47年まで米国が統治し、復帰後の今なお、敗戦の傷跡を多く残しています。
本土は原爆で一瞬だったが、沖縄は上陸掃討作戦、戦車と火炎砲で横一列に焼き尽くしていく。
壕に住民が潜んでいたとしても、焼き尽くす。
軍人が混じっているので、やむを得ないといえばやむを得ないだろう。
極度に鬼畜と教え込まれた敵兵が目前、恐怖の中から捕虜として集められ、住民は生き延びてきたのである。
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